十一 天然理心流×無外流 特別対談 第11回の夢録は、天然理心流と無外流の両流派宗家の特別対談をお送りします。 かたや、幕末の京で一世を風靡した天然理心流九代目 (新選組の近藤勇局長は四代目宗家) の宮川清藏勇武宗家。 かたや 新選組三番隊組長斉藤一が使ったと言われる無外流 関東最大の一門明思派を率いる新名玉宗家。 新選組が京にのぼった文久三年創業の日本橋の料亭から 150年目の邂逅をお届けします! 内容が濃いため、前・中・後編の三回に分け、お届けします。(インタビュー 武田鵬玉)
天然理心流九代目宗家にして、新選組局長近藤勇の生家宮川家の方として見れば、まぎれもないご遺族。夢録四にご紹介した宮川豊治智正さんはお兄様にあたられます。 天然理心流勇武館館長でいらっしゃいます。 NHK大河ドラマ「新選組!」にも出演され、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが修めた天然理心流について解説していらっしゃいました。
1948(昭和23)年10月2日大分県津久見市生まれ、 財団法人無外流、傘下15団体一門の長.。 関東最大、無外流明思派宗家 無外流居合兵道の修道者としては86年師範、96年免許皆伝。 98年範士、99年宗家継承(無外流明思派宗家の名乗りは2004年から)。 鵬玉会では最高顧問をお願いしています。
1)天然理心流×無外流 新選組以来140年 武田鵬玉(以下武田) 今日は新春特別企画でお送りしたいと思います。日本橋で文久三年から続く名店「とよだ」で天然理心流宮川清蔵勇武宗家、無外流明思派新名玉宗宗家をお迎えしています。宮川先生は、夢録でご存じの通り、新選組局長だった近藤勇さんのご子孫にあたられます。 天然理心流 宮川清蔵勇武宗家(以下宮川宗家) はじめまして。よろしくお願いします。 無外流明思派 新名玉宗宗家(以下新名宗家) こちらこそ、よろしくお願いします。 武田 流派を超えて、「武道についての核」のようなものに迫れたら、と思います。今日は、武道に興味があるけれど、というような方の代わりにお聞きしますので、「そんなの基本の話だろ?」と思われる内容もお聞きするかもしれませんが、よろしくお願いします。
宮川宗家 武田先生にお会いしてお話したのは昨年2月。あれからもう一年近くたつんですね。今日は楽しみにしてやってまいりました。ご縁だなあ、と思いましたが、このお店は文久三年にできたんですね。 武田 文久三年と言えば新選組がまだ新選組でもなかったその出発点、京都に上るその年ですよね。 宮川宗家 ご縁ですよねえ。今日は盛り上がりそうですね。 武田 新選組が上京した文久三年にできたお店で、新選組以来の天然理心流と無外流の邂逅、という趣で今日は話を進めたいと思います。 宮川宗家 (笑)。嬉しいですねえ。 2)幕末に至っては寂しい限りになった 新名宗家 無外流宗家と言っても、たくさん別れていますので、その一派の宗家ということで。お恥ずかしい限りです。天然理心流は空手形にはなりましたが、幕末には近藤勇が十万石、土方歳三が五万石を約束されて大名格です。それに比べれば無外流は石取りではなく、何人扶持ということになってしまいました。 宮川宗家 ほう。 新名宗家 最初は二百石だったんですが、幕末にはそんな状態になってしまっていたんです。 宮川宗家 流祖の辻月旦さんの頃には違いますよね。 新名宗家 ええ。大名三十六家が学んだと言われています。流祖の当時は勢力を張ったんでしょうが、幕末にいたってはどこにあるかわからないような流派になってしまいました。結局、土佐無外流は昭和の川崎善三郎先生で無くなってしまいました。剣道ばかりやられて、無外流の形を一切教えなかったそうです。だから、その弟子の皆さんは形を知らないそうです。 宮川宗家 どの流派もそうでしょうが、天然理心流も明治期は世に出ることをはばかり、ひっそり過ごしていました。大変苦労した時代でした。 3)幕末以降の天然理心流、無外流 新名宗家 姫路に伝わった高橋家だけがなんとかかんとか続いて、中川先生は十一代と言いますが、本当に高橋赳太郎先生から免許皆伝の巻物を受領し、宗家を継承をしたかどうかは不明です。巻物類等は。空襲で全部焼けたということですから。 宮川宗家 宮川家も調布飛行場の北側にありまして、昭和18年に軍から「飛行の邪魔になるから」と一方的に転居を命じられて、取り壊されました。そのときのごたごたで近藤勇の手紙や遺品の多くが散逸してしまったのです。 新名宗家 残っていたんですね、貴重なものが。失われたのは残念ですねえ。 宮川宗家 誠に残念です。 新名宗家 申しましたように、無外流もそのあたりは不明なことが多いわけですが、ただ中川先生が昭和のはじめに出した本の監修に高橋赳太郎先生の名があります。ですから高橋門下の重鎮であったというのは事実だと思います。しかし、その後がお恥ずかしい話になってしまいました。 宮川宗家 いろいろありますよね。天然理心流も(近藤)勇の当時に大名格を約束されたとしても、幕末の時代の流れは動きが速うございました。勇をはじめ、多摩の人たちもついていけなかったんじゃないかなあ、と思います。 新名宗家 私の子どもの頃は新選組は悪役で鞍馬天狗にやられていましたものねえ。あの頃の子どもたちはおそらく同じ印象だったんじゃないでしょうか。司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で私はその印象がガラリと変わったんじゃないかと思います。 4) 「天然理心流極意」佐藤彦五郎
宮川宗家 昭和50年頃、先代の加藤伊助先生から天然理心流の手ほどきを受けていました。曾祖父の近藤勇五郎- 武田 近藤勇さんからは甥御さんにあたられる五代目のご宗家ですね? 宮川宗家 はい。先代加藤先生が稽古を終えると、勇五郎から密かに呼ばれ、道場にある火鉢の灰にトンボ絵図を書いて形を教わったとおっしゃっていました。 新名宗家 いい話ですね。 宮川宗家 ただどんな流派もそう、武道に限らずどんなものも伝えられるうちに、やはりちょっとずつ変わる可能性があることは否めないように思います。近藤勇と義兄弟で、日野宿の名主をしていた、佐藤彦五郎という人がいるんですね。 武田 確か、近藤勇さんの養父だった近藤周斎さんから天然理心流を学ばれた方ですよね? 宮川宗家 ええ。その佐藤彦五郎が覚書で書いた「天然理心流極意」というものがあります。それを読むと、勇五郎さんが先代に手ほどきしたものとちょっと違うところがあるんです。 新名宗家 そうですか。 宮川宗家 文久三年、近藤勇が京に行ってからは、養父周斎は四ッ谷舟板(ふないた)横町に移り住んでいましたし、伝えていくのには難しい時代になったでしょうねえ。(近藤)勇のお墓がある、龍源寺の住職、林正禅和尚が「近藤勇略伝」というものを残しています。それによると、近藤勇達が京に上った後、市ヶ谷柳町の試衛館道場を守っていた門人で、幕臣の福田平馬(へいま)、田安家の家来の寺尾安次郎などに近藤勇五郎が学んだ様子が描かれています。勇の甥っ子だけあってめきめき腕をあげたということです。 新名宗家 龍源寺ですね? 宮川宗家 はい。林正禅和尚は勇のことを勇五郎から聞いていますが、そのときにきっと勇五郎に天然理心流のことを聞いたでしょう。結局伝えられて書くわけですから、そこに齟齬が出たとしても不思議ではないですし、事実はわからないんですね。 新名宗家 なるほど。本当に伝えていくことは難しいですねえ。 宮川先生 今なら動画に撮ったり、書き物に残したりできるでしょうが、幕末、明治期ひっそりと過ごさなければならなかった時期がありますし、どんな流派も本当に大変な思いで伝えてきたんでしょう。