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HOME > 鵬玉会 > 夢録 > 五 天然理心流九代目宗家 近藤勇ご遺族 宮川清藏勇武清藏先生 > 宮川清藏勇武先生2
5) 実直、純粋に「天地の公道」を極めようとした近藤勇
宮川先生 ええ。勇は実直、純粋でありましたから、その教えそのままで生きたわけです。
理心流は「忠君愛国の志を持ちなさい」「社会公共 国利民福を企て、それを実行するために理心流を使いなさい。
理心流を極めた者は三軍を率いることができる人材になれる。天下を治平に導きなさい」と言っているわけです。
武田 なるほど。その教えを聞けば、近藤勇さんが自分を律した生き方の理由になったことがよくわかるような気がします。
宮川先生 純粋だったんでしょうね。初代近藤内蔵之助、二代三助、三代周斎が言った教えを守ったんでしょう。彼は「尊皇攘夷 尽忠報国」と常に言っています。倒幕を考えている人たちは同じく「尊皇攘夷」と言っているが、どうもやっていることが違うじゃないか、と思ったんでしょう。「尊皇攘夷」と言いながら不逞をはたらく浪士を取り締まったわけです。そこには憤りがあったのでしょう。だから会津中将松平容保公と一緒に皇御心(すめらみこころ)を、そして京を守ろうと考えた結果が新選組だったんでしょう。
武田 ご存知ない方のために注釈をつけるなら、皇御心を守ろう、天皇を守ろう、ということは当時の武士階級においての基礎常識みたいなものですよね。佐幕も倒幕も、いずれもその基礎常識の上にありました。特に偏った思想があったわけではないということを注意しておきたいと思います。
宮川先生 そうですね。
武田 作家浅田次郎先生も「壬生義士伝」、「輪違屋糸里」、「一刀斎夢録」で近藤勇さんを純粋で真面目な人として描いていらっしゃいましたね。
宮川先生 勇は子どもの頃から囲炉裏端で実父久次郎の膝に抱かれて、三国志や楠正成、加藤清正の話を聞くのが好きだったそうです。そういう幼い頃のエピソードと、学んだ内蔵助の考え方を重ね合わせると今までの小説やドラマ、映画には踏み込まれていない近藤勇の心が見えるように思います。「これが俺の生きる道だ」「これが俺の武士道だ」という思いだけで生きたでしょう。その真っ直ぐさ故に、矛盾を感じ行き詰ったときがあると思います。
武田 どんなときですか?
宮川先生 官軍と賊軍として戦うことになった、自分が朝敵とされたときでしょう。
武田 自分達が天皇を守っていたのに、と思ったんでしょうね。整合性がつかなかったでしょうね。
宮川先生 天然理心流の根本精神は近藤勇の生き方を見ると理解できると思うんです。寛政年間から変わらない考え方です。門人達は稽古し、武術を修め、世の中の役にたつ人になりなさい。それが理心流の本流だ、ということです。
6)近藤勇生家ご遺族と、天然理心流の出会い
武田 そんな宮川先生と天然理心流の出会いを教えていただけますか?
宮川先生 今でこそいろんな文学や映画に取り上げられますが、私が中学や高校の頃には明治以来の悪役のイメージが新選組にも天然理心流にもありました。近藤勇の90年祭が龍源寺でありました。昭和32年、私は18,9でしたが、あまり目覚めていませんでした。
武田 東山三十六景、草木も眠る丑三つ時、と講談師が語り、新選組が悪役であった時代が長かったという頃ですね。
宮川先生 はい。昭和42年に近藤勇100年祭がやはり龍源寺でありました。そのあたりからですね。龍源寺の講演会に来ていらしたのが、小島総一郎さん。今東京は町田市小野路にある小島資料館の現館長のお父さんです。小島さんがいろいろご存知でお話を伺いました。NHK大河ドラマ「新選組!」でも描かれていましたが、近藤勇、小島鹿之助と、佐藤彦五郎の三人は仲良くて漢学を勉強したり、剣術を修行したりしていたそうです。義兄弟の契りまで結んでいたんだそうですね。その小島家の方と見た天然理心流の演武が初めてのふれあいでした。
▲天然理心流の太い木刀 |
武田 幕末の近藤勇の人との関係が今蘇る、といった雰囲気ですね。聴いていても興奮します。
宮川先生 昭和42年4月の100年祭のときは、宗家としては私の先代にあたる加藤伊助先生が、まだ宗家ではなかった頃です。四人ほどの門人が勇の墓前で、天然理心流独特の太い木刀を使い演武をしました。「これが理心流なのか」と思いました。
武田 あの太い木刀は有名ですよね。そのとき初めて見られたわけですね。
宮川先生 そうです。加藤伊助先生が私におっしゃいました.。
7)「血筋だ、天然理心流を勉強してくれ」
武田 なんと言われたんですか?
宮川先生 「宮川清蔵君は本家の血筋なんだから、今急に、とは言わないが天然理心流を勉強してくれないか」そうおっしゃったんです。
私は調布に住んでいましたし、先生は三鷹に住んでいらっしゃいましたから、中々その段階で交流することはできませんでした。
それからしばらく経って昭和45、6年頃のことでした。毎年1月5日は恒例の撥雲館道場の稽古初めなんですが―
武田 撥雲館道場と言うと
宮川先生 近藤勇五郎(近藤勇の甥。宮川家から近藤勇の娘たまの婿になる形で養子に入り、天然理心流四代目宗家近藤勇の跡を継ぎ、五代目宗家となった)が建てた道場です。宮川家の裏山から木材を伐りだし、門人の大工が作った道場なんです。
武田 稽古開きに行かれたんですか?
宮川先生 はい。本家として毎年の稽古初めには出席はしていたんです。しかし、この年は加藤伊助先生から「宮川君も稽古してみないか」と誘われて、初めて指導を受けました。
その後、昭和47年1月5日撥雲館道場の稽古初めのときのことです。近藤勇史跡保存会の加藤武雄会長から「今年の稽古初めには天然理心流一門が集まり、大事なことを決めるので、宮川本家も来てくれないか」と言われました。
武田 一門で大事なことと言うと宗家のことでしょうか。
宮川先生 ええ。実は近藤勇五郎の後、七代目宗家を継いでいたのが息子の近藤新吉です。加藤先生は新吉先生と呼んでおりましたが、私からすればおじさんです。余談ですが、この新吉おじさんは、警察で剣道を教えるのに忙しく、加藤伊助先生に教えることが多かったのは勇五郎だったそうです。加藤先生から聞いた話ですが、加藤先生と二人きりのとき、道場にあった火鉢を前にして、火箸で灰に「この形はこうするんだ」と描いては他の人に見せないように消していたそうです。
武田 またリアルな話ですね。その域に達して初めて教わることができるもの、という点では、誰も文句のつけようがない話だと思います。
宮川先生 ところが七代目の新吉おじさんが昭和14年に亡くなっていました。それから30年以上天然理心流の宗家は空席だったんです。
武田 長いですね。
宮川先生 ええ。そこで一門が集まった稽古初めで、先ほどの近藤勇史跡保存会の加藤武雄会長が「やはり八代目を決めないといけないのではないか」とおっしゃり、三鷹の剣道連盟でも活躍していらっしゃった加藤伊助先生に「八代目を」となりました。加藤先生は勇五郎のお弟子さんでもありましたし。
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