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7)石田散薬製造、若き土方歳三の差配
土方さん ええ。牛革草(ぎゅうかくそう)という草を土用の丑の日に刈取りして作ります。当時の石田村は14、5軒です。ですから男衆、女衆合わせて村中総出で20~30人ぐらいで刈取りをするんですが、歳三さんが指揮をとった日は、仕事が早く終わったそうです。仕事や人の差配に歳三さんは力を発揮したんでしょう。
武田 それだけの人数の仕事なら相当あるんでしょうね。
土方さん そうです。刈取る草ももの凄い量になります。刈り取るだけではなく、洗いも必要、干すのも必要。そんな仕事の分担もいるでしょう。今、年に一度復元として同じ作業をするんですが、刈取りの時期と言えば暑くて大変です。それを膨大な量の刈取り、洗い、精製と大変な作業があったのに、若い歳三さんの差配なら早かったんだそうです。
武田 「なんだか歳三さんの言うことを聞けば、早く終わるぞ」と思われていたでしょうね。
土方さん そうでしょうね。ある種、人を引き付けるところがあったんでしょうかね。ガキ大将からそのまま発展したような。
武田 どこかやんちゃな。でもそういうところは魅力的だったでしょうね。
土方さん 歳三さんの最後の地である箱館で一緒だった榎本武揚さん、大鳥圭介さんはれっきとした幕臣で、バックグラウンドが凄い。海外留学の経験もある。教養もある。そんな錚々たる方達の中、歳三さんはただ一人農家の出です。
8)命運を賭けた場面では、仕事ができるかどうか
武田 なるほど。しかし、こういう生き死にがかかる場面では、その魅力がさらに際立ってそんなことは関係ないと思わせますよね。武士の最後としてはこれ以上はない、と誰も異論をはさめないような最後を迎えるし。浅田先生は、「だから明治後に誰も土方のことを口にしない。言えば自分がみじめに感じる」というようなことを書かれていましたね。
土方さん 殺気だった荒くれ者達を束ねるカリスマ性もあったんじゃないでしょうか。
武田 150年前、一緒に京にあがられた方達は錚々たる面々です。天然理心流免許皆伝者を始めズラリといらっしゃる。神道無念流永倉新八みたいな方もいる。普通に考えれば、今でも武道の集団の中では、二段や三段であっても、それより段位が高い人たちからは下に見られてしまいます。
土方さん そうでしょうね。
武田 武道の世界では段位、級位というのは強い縛りですからね。当時は今よりもさらにそういう傾向はあったでしょう。しかし、そんなことをものともせず、京に上ったあたりでは山南敬介に次ぐNo.3になっってしまった。山南敬介が負傷したのちは、名実ともにNo.2になった。それができた原因を考えると、可能性があるのは二つ。よほど仕事ができたか、あるいはよほど近藤勇と仲良かったか。
土方さん (笑)でも仲いいだけではですねえ。可愛がられはするかもしれませんが・・・。
武田 普通に考えればその通りですよね。そう推理していけば、よほどリーダーシップがあって、仕事ができた、ということが言えそうです。
次回夢録 その十は・・・
土方愛さんインタビュー後編です。
No.2として新選組を作り上げた土方歳三さんのリーダーシップは
どのようなところから作られたのか。
その核心に迫ります。
ご期待ください!
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